「キラー・シクマ」を知っていますか

 最近プロレス研究家の中で「キラー・シクマ」というプロレスラーが話題になっているという。この研究者のホームページによれば、明治38年ハワイ生まれの日本人で、柔道の実力者だったが、戦前のアメリカで一流プロレスラーとして活躍しており、あのルーテーズが、シクマは本当に強かった、といっていたそうだ。力道山がデビューする遙か前のことだ。ところが、日本ではその名は全く知られておらず、最近、その存在が明らかになってきたというのだ。 詳しくは、そのサイト(ミック博士のプロレス研究室)をご覧いただきたい。
 ところで、この人の経歴が面白い。なんと、昭和15年に日本に帰り、山口県柳井市で小学校の先生をしていたというのだ。そして、戦後は校長先生になり、昭和35年に亡くなるまで、日本では、全くプロレスにコミットすることはなかった。力道山からも誘いがあったが、断っていたそうだ。
 ちょっと待て、柳井?そう、柳井といえば、いうまでもなく、少年レスリング発祥の地、斎藤道場のあるところではないか。そして、亡くなった頃には、既に斎藤道場はあったはずである。もしかしたら、斎藤さんと絡みがあったのではないだろうか。
 私の息子が少年レスリング史の取材で斎藤さんの所に行った折り、シクマの事を聞いたら、なんと、山口県アマレス協会2代目会長だったそうだ。そして、斎藤さんがアマレスをする前に、柳井市の柔道クラブを共に運営していたという。このシクマ、いや志熊さんは、初期の少年レスリングも見ていた人なのだ。他にも色々な話しがあったようだが、興味深かったのは、斎藤さんが志熊さんに誘われて、柳井の体育館でプロレスをしたという話だった。ちゃんと人を集めてやったというのだから、興業だったようだ。まだ力道山が現れる前で、プロレスがどういうものか全く知らず、とにかく誘われるままに、15分くらい闘ったそうだ。
 さらに、斎藤さんと県レスリング協会会長新荘さんのご厚意で、志熊さんのご子息の所まで案内していただき、色々な資料を見せてもらい、テレビで放映されたビデオまでいただいて帰ってきた。ご子息は山口県一の園芸店を経営されているそうだ。
 いやはや、歴史とは本当に面白いものだ。調べれば調べるほど、色々な事実が掘り起こされる。ちなみに、山口県レスリング協会初代会長は、高野連の前会長牧野直隆だ。これも予想外の事実だ。
 
戻る