笹原正三のレスリング

 
 (財)日本レスリング協会会長・笹原正三氏がメルボルンオリンピックで金メダルを獲得したのは、1956年(昭和31年)である。あれから45年もたち、笹原氏の強烈にして正確無比なレスリングを、そして誰もが驚嘆し、畏敬さえした激しい練習ぶりを知る人も少なくなった。私はその身近に接していた者として、不世出のレスラー・笹原正三氏の技と精神について書いておきたいと思う。(以下敬称略)

 昭和4年山形市に生まれた笹原は、普通の子供よりひ弱な少年として育った。山形商業で剣道に熱中したがさして目立った運動選手ではなかった。山形商業を卒業後、英語を勉強し進駐軍の通訳として働いたのち、高校の先輩である三条国雄氏を慕って、中央大学に入学し、レスリング部に入部した。入部後は先輩に絞られ、しごかれる毎日に、「人権侵害だ」と叫んだこともあったと言う。大学時代は、中央大学のレスリング部キャプテンではあったが、どちらかといえば地味な選手であった。しかし将来を見据える点では他の選手とは明らかに違っていた。当時の学生レスラーは大学を卒業すると、就職が優先で、卒業後もレスリングを続ける者は稀であった。
 笹原は就職せず、卒業年、昭和29年5月に開催される、世界選手権東京大会を当面の目標とした。更にその先にある大目標はメルボルンオリンピックであった。
 笹原は、世界選手権東京大会の代表となり、初の日本代表ながら、世界の強豪を次々に圧倒、見事世界チャンピオンになった。笹原の名が世間に知られるようになったのはこの時からであるが、レスラーとしての本領はむしろこれ以後に発揮されることとなる。

 世界一の座に就いた笹原は練習に対する態度が更に厳しくなり、挑戦的になっていった。練習の場では以前にもまし更に寡黙になり、一瞬の気の緩みもなかった。その徹底した態度は他の選手と比べようもなく、何かを追求する修行僧のようでもあった。
 その頃の笹原は、鬼のごとく中大レスリング部のマットに仁王立ちになり、中大レスリング部員を次から次と相手にした。どんな場合でも笹原は、気を抜くことはなく、1ポイントも相手に与えず、一日の練習を終えるのが常であった。笹原のレスリングに対する信条は、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」と言う孫子の兵法に学び、あらゆるレスリングに関する情報を集め、分析と調査を行い、練習は常に「練習即実戦」をモットーとしていた。笹原のレスリングの神髄は練習にもっとも現れていたといえる。

 練習相手は階級を問なかった。兼子、本橋、池田、桂本、関、中川、すべて当時の日本のチャンピオンクラスであり、フェザー級からヘビー級にまでに及び、時には一人との練習が一時間にもおよぶこともあった。中大レスリング道場では笹原の練習中は、私語をする者など全くなく、スパーリング中の選手を除けば全員が笹原の練習に引き込まれ、一挙一動に注目し笹原が膝をついただけでも、異様などよめきが起こる程であった。笹原は決して練習中に言葉を発することはなかった。それが、なおいっそう笹原に凄味を加えていた。
 世界チャンピオンになった笹原には、挑戦する側も特別なファイトを燃やしていた。中大、本橋、明大、笠原、矢田、阿部、早大、大倉、慶大、小久保兄弟、と世界的選手が数えたらきりがなかったが、誰一人として笹原の牙城を崩すことはできなかった。
 これらの選手は笹原の引退後、皆チャンピオンになっていった。笹原にかなわなかった、明大笠原がライト級に一階級あげて、メルボルンオリンピックで銀メダルを取ったのも、笹原の強さを示す一例だろう。

 笹原は世界チャンピオンになってから、メルボルンまでの3年間、内外の試合において無敗であり、しかもほとんどポイントを相手に与えなかった。メルボルンでは日本中の期待を背負いながら全く動じることなく、当然のように金メダルを獲得した。外国のマスコミも一点の隙も見せない笹原の試合ぶりを「スイスの時計」と評した。日本の時計が正確さにおいてスイスを上回たのは、この後のことである。
 当時の中大レスリング部員は、笹原と同じ道場にいたと言うだけで、同じ空気を吸っていたと言うだけで、強くなって行くという実感を持っていた。断然たる世界一の選手が身近にいることで世界のレベルを掌握し、外国選手なにする者ぞと言う自信も生まれた。これは中大だけにとどまらず、日本全体のレベルアップをうながし、東京オリンピックを頂点とする日本レスリングの開花につながっていった。

 ここで私なりに理解した、神技、笹原レスリングにふれてみたい。
 笹原は左構えである。普通の左構えの選手は左足を少し前に出し左足を中心にレスリングを組み立てるのだが、笹原は違った、笹原は左構えながら右足をわずかに前に出し、右足にいつでも重心を移し素早く相手の両足にタックル出来る体勢を作り、一歩も引かぬ構えで、じわりじわりと相手に迫るのである。 笹原の組み手は、相手につかませる自分の手も、自ら引きつける相手の手も、総てタックルに至るまでの計算ずくの組み手なので、対戦相手は、笹原の罠にかかったように、体勢を崩されてしまうのだった。笹原のタックルには、すべて原理があり、従来のタックルの、当たる、飛び込む、というより、組み手で相手の体勢を崩し、棒立ちにして、両足をつかむというタックルだった。このタックルはその後、現在に至るまで、誰もマスターした者はなく、その原理さえ理解した者は少ないので、もう少し具体的に説明してみる。
 少々難解だが、タックル原理を追求したレスラーには理解してもらえると思う。笹原は左組ながら、右足を僅かに出し、右手を相手の額にあて、相手を誘う。左手は相手の右肩口にあて、つっかい棒のようにして相手に軽く体重をかける。相手が笹原の右手を取った瞬間、左手のつっかい棒をはずし、手取りをしながら、右足で蹴って、棒立ちの両足に飛び込むのである。これが笹原の手取り両足タックルの極意である。相手はつっかい棒をはずされ、手取りをされるので、左足は動かず、右足だけを踏み出し、体重は後ろに移ってしまい、受けとして、もっとも弱い体勢を露呈してしまうのである。

 守りにおいては、笹原の左足は誰に取られても倒れることはなく、絶対的な自信を持っているので、相手のタックルに対して、逃げる必要はなく、むしろ相手のタックルを左足に誘い込む守りであった。 笹原の寝技は世界を震え上がらせた股さきを中心に、組み立てられており、手取り、ネルソン、を組み合わせたもので、梃子の応用を原理とした様々な技を、波状的に攻める激しい攻撃には、誰でも参ってしまうのである。笹原は相手が強かろうが、弱かろうが全力を出し相手を還付無く攻めまくるのである。
 メルボルンオリンピックで対戦した、アメリカの強豪ローデリック選手が、笹原の激しい攻撃に、試合中に、笹原もう反撃しないから、そんなに攻めるな、と言ったことは有名な話である。肉体的には決して恵まれていない、むしろ堅い身体の笹原は、寝技の守りでは相手に完全にホールドさせない、常に安全な体勢を堅持し、相手の攻めに対して、防御を基本どうり確実に行った。
 笹原の引退後もその雰囲気は中大、兼子隆、浅井正、佐藤多美治、渡辺長武等に受け継がれ、レスリング界に中大時代は続いた。笹原は自ら積極的に地位は求めずいたが、結果として、国際レスリング連盟副会長、日本レスリング協会会長、JOC副会長の地位を得、更に、紫綬褒章授与の栄誉にも輝いた。

 笹原は、70歳を超した今日も、人体実験と称し、絶対気を抜かない激しい練習をこなし、今なお寝技においでは、一流の強さを堅持している。笹原は、金曜日になると、長野県に持った百姓小屋に行き、土曜、日曜を野良仕事で過ごしている。

 「宮本武蔵とは笹原の様な男」 これは故八田一朗レスリング協会会長の言った、武蔵評でなく、笹原正三評である。


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