戦中の朝鮮人レスラーについて(村田恒太郎氏談)

 昭和16年12月8日太平洋戦争勃発、世は軍靴が響き出征兵を送る軍歌が街に流れ非常時と成った。政府の外郭団体であった大日本体育協会は、総理大臣東条英機大将が会長となり、文部大臣、厚生大臣が副会長となった。従ってスポーツ界には様々な束縛が生じ特にレスリングは敵性スポーツのレッテルを貼られてしまった。
 昭和17年明治大学レスリング部に重大事件が勃発した。陸軍少尉となった清水禮吉6代元主将が軍服姿でレスリング道場に現れ、軍令の言辞で言った。自ら指名した7代目主将金鐘爽以下朝鮮籍選手の即刻退部を命じた。2年前金鐘爽を主将に指名した清水の心中はいかばかりであったろうか。当時9代目主将であった村田恒太郎は軍体制時代の命令に従わざるを得なかった。朝鮮籍部員はだまって去る者、涙を流す者、暴れ回る者、様々であった。日本人部員達はただ泪だけであり言葉はない、翌日朝鮮籍の学生は一人も居なくなった。一つ釜の飯を食った兄弟が無惨な退部命令で去っていったのである。九十歳の村田は涙ぐんで当時を振り返る。
 昭和18年初年兵となった村田は中華民国湖南省の初年兵教育隊に入隊する。その日から人間性を剥奪され朝から晩まで殴られた。それが「初年兵教育」という。そんな生活が一月ほど過ぎた頃である。「村田あるか!」と巨漢の幹部候補生が入ってきた。隣の戦友が言った。「アッ楠本だ」。六大学野球のスター慶応大学のエース楠本保が村田を訪ねてきたのである。同中隊に入ってきた明治大学レスリング部選手である村田を東京六大学の仲間として訪ねてくれたのである。しばらく話し「頑張れよ」と笑って大きな背中で帰っていった。十日ほどして「黄梅作戦」で楠本戦死の報が届いた。楠本の戦死は村田が軍隊に入って初めての人の死であった。

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