参議院議員選挙

 参院選挙も終盤である。民主党が過半数を確保するか、自民党が盛り返すか、新党の躍進はあるか11日に決着する。

 45年前私たちが若き血をたぎらせて全国をかけずり廻った八田会長の参院選挙は、東京オリンピック後の1965年のことであった。
 自民党党人派川島正次郎派から全国区に立候補した八田会長の選挙はまさに無手勝流で、全く素人の私や福田、橋本が選対の中心のメンバーだったのだから酷いものである。
 私は選挙カーを運転しながらマイクを握り、宮城、秋田、山形、福島を 「スポーツ界の代表 八田一朗」と声をからして走り廻った。大阪では関大の学生達が応援にきてくれたし、福岡では福岡大学の学生が夜遅くまでビラ貼りに頑張ってくれた。選挙で力を貸してくれた関大の今村君、福岡大学の辛島君とは40年以上たった今も付き合いがある。
 八田事務所は選挙も終盤にさしかかりお金がまったく無くなってしまった。まだ早稲田大を出たばかりの橋本君と川島派の事務所に談判にゆき何百万円かを借りてきた。話を聞いてくれたのは現赤城衆議院議員のお爺さん自民党の重鎮赤城宗徳議員だった。八田は金がありませんの一点張りで、政界の大物にお願いする橋本勝君の押しの強さには驚いたものだった。橋本君は後に高知の土佐清水の広田家に迎えられ、広田勝として高知県議会で活躍した。
 苦戦が続いた素人選挙も終盤にさしかかり果然勢いがつき、全国区定員55人中44位で見事当選した。20代の若造ながら秘書として必死に全国を走り廻った遠い日が昨日のことのように思い出される。
 6年後には八田参議院議員の落選した選挙も経験し選挙の天国も地獄も味わった。選挙の指南番として川島派からの派遣された松崎長作先生に、候補者が選挙に勝ったときは命がけで働いた人たちは陰に隠れ、落選したときこそ表に立って働くものだ、と言われたが、その両方の場面を味わった私は二度と選挙だけはやりたくないと思ったのである。
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