戦後が生んだ快男児

私の知り合いのMさんは七十歳を過ぎたが、今なお流行の最先端を行くベルサーチの服を着て、六本木の町を闊歩している。終戦直後、大学生で銀座警察という愚連隊グループを作り、第三国人と渡り合って暴れまくった人だった。やがてMさんは新宿の暴力団の親分の身内となったが、大学を出てこのままでは人生駄目になってしまうと、親分にやくざを止めさせてくださいと父親の手紙を添えて願い出て、特別に許されて晴れて堅気となった。しかし生来の熱血漢、世間の不条理が許せず新宿で暴れ回っていた所を、親分の目に留まり、「Mはまだ新宿に居るではないか、俺の所に来るように。」と呼び出されてしまった。Mさんがやくざには絶対戻らないと頑張った為、親分は「それでは俺の持っている会社に社員として入れ」と勧誘されて以来「や」の字の付く会社に50年勤めることとなった。Mさんは有名な大親分に認められたほどの人だから、頭が良く、度胸は良く、義理に厚く、人に優しい人だ。その様な世界にいながら、俺はやくざ大嫌い、右翼はそれよりもっと嫌い。と言ってはばからない快男児だ。戦後、中国から命からがら引き揚げてきて、苦労しながら大学に入り、大学時代はボクシングの名選手として名を馳せ、勉強も人一倍したそうである。Mさんは「や」の付く会社に50年も身を置いているが警察のやっかいになったことはなく、広い範囲に交友関係を持っている。
 我々後輩は物知りのM先輩から戦後の東京の様を酒を飲み名から聞くことを楽しみにしている。Mさんの話を聞いて一番為になることは決して人を悪く言わないことである。とかく歳を取った人の話は、「あいつはたいしたことはなかった。」とか、「俺しか知らないは話だが」と言う話が多いのだが、決してこの手の話はせず、人の話をする場合は、あいつは大したものだった。あいつはいい人間だった。としか言わないのである。堅気なのにどんなやくざとも一歩も引かずに付き合った、Mさんの処世術だったのかも知れないが本当に勉強になる。Mさんを頼りにした大親分は数年前に亡くなったが、未だ親分の奥さんと組の幹部から頼りにされ、「や」の字の世界から引退できないよ。と嘆いている。

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