記録の大切さを再認識
  
 最近、少年レスリング連盟の20周年史を書く上で、日本レスリング協会の歴史をさかのぼって調べているが、全く知らなかったレスリング史に出会い驚いている。資料はレスリング協会機関誌、八田会長の書いた「レスリング」、協会編集の「レスリング世紀の闘い」、庄司彦雄氏と山本千春氏の書いた「レスリング」と八田会長の残した国会図書館にある膨大なスクラップ集などである。その一部は私のページ上にも掲載しているが、全部を集約したら何冊にも本になるだろう。
 新聞に載った記事中から一部を書きだしてみた。


1.大正十年三月五日、九段靖国神社相撲場において日米の柔道対レスリングの血戦が行われた。観衆は二万人を越え正面の一段高くなった招待席には財界の大御所渋沢栄一翁のにこやかな顔が見え、また不敗の横綱太刀山が鳳、国見山、を従えてノッシ、ノッシ、とまわし姿で現れた。(「日米他流試合を観て」佐々木指月『中央公論』1921年4月号)

この記事の主人公が、早稲田大学レスリング部を創設した庄司彦雄氏である。



2.次の記事によると、国士舘専門学校は早大のレスリング部創立間もない第一回大会に選手を出場させており、早大より早くからレスリングをしていた可能性がある。試合結果に出てくる二人の八田選手は兄弟であり、後に書いてある八田が兄の八田一朗会長である。

レスリング きょう初試合
 庄司彦雄氏の尽力によりわが国では最初のレスリング部が早大に創設されたのは既報の通りであるが、いよいよ10日午後6時半から早大大隈記念講堂で左記(略)の組みあわせにより我が国最初の公開試合を行う事になった。尚当日は滞独中レスリング研鑚を積んだ工藤一三氏がコーチしている国士館専門学校からも大庭、溝口の両選手が出場することとなった。
 昭和6年6月11日(木曜日) レスリング 初試合 早大レスリング部主催の日本最初の試みである第1回レスリング試合は十日午後6時から大隈会館で挙行。山本忠興会長などのあいさつあり上山草人、鈴木伝明両氏の漫談もあった。
(勝) (負)
矢内(2-0)山本 八田(2-1)長崎 原田(2-1)三輪 八田(2-0)藍崎 坂口 大庭(国士).引き分け 溝越(国士)(1-0)小田 斎藤(1-0)長沢 田中(1-0)桜井 伊勢(0-0)村上引き分け
(朝日新聞、昭和6年6月12日)



3.全く知らなかったが、昭和12年に少年レスリングが行われていた。
「小学レスリング けふ日米第一戦に公開」
 待望の日米対抗レスリング第一戦大日本アマチュア・レスリング協会主催の早大対米国軍の対戦は、数多の国際競技に盛り上がったスポーツ日本夏の陣の開幕戦として華々しく開催されるが、…中略…なほ対早大戦の試合プログラムは既に発表済みだが、オープン競技として左の二試合が加へられた。
 バンタム級  松尾(早大)対 松内(慶大)
 少年選手   坂下(鶴巻小学校) 対 色川(鶴巻小学校)
小学選手の対戦は日本初のことで、坂下は十一歳、色川は十歳、毎日級友約七八人と早大道場で約三ヶ月練習を行ったもので、身体が柔軟な丈に単に技術の点からいふと一人前で動きも早く見事な試合振りを見せることが期待されている。(報知新聞 昭和12年7月13日)




4.とある英国のサイトが公開しているデータベースに、1963年英国マンチェスターで行われた、当時としては大変珍しい、英、米、日のレスリング国際大会の模様の映像が公開されている。当時、日本はまだ国力も弱く、世界の大国、英、米、に吾して英国に招かれて試合をするなどといったことは考えられなかった。もちろん八田一朗会長の国際的手腕の結果である。この試合で、私は最優秀選手賞を頂き、ホームページにも Yusaku Imaizumi と掲示してある。

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