俳句の巨匠が書いた「八田一朗君のこと」 |
八田一朗君は、私の次男の友次郎とは鎌倉師範付属小学校時代に一緒に通っていた。家人などが話すところを聞くと、乱暴者であるらしかった。何かが癪に障ったと言って郵便ポストを抜いて川に打つちやつたこともあった。八田君は手の付けられないいたずら者であったようだが友次郎とは仲が良かった。中学でも一緒であったが、そこでも乱暴者で通っていたらしい。 −中略− 戦後満州から引き上げてきた八田君夫妻が青山でホテルを営で居た時に、立子、友次郎と共に一日このホテルの食卓に招かれたことがあった。三笠宮殿下御夫婦もご一緒であった。そのとき、専ら細君がホテルの経営に当たっているらしいことを知った。またご母堂にも久しぶりにお目にかかった。 昭和28年八田君がレスリングの選手を率いてヘルシンキオリンピックに参加するとき、出発前宅に来て画帖をを差し出し、何か一句題せよとのことであった。私はこういう句を書いて遣った。 野犬には非ざりしこの狩の犬 虚子 往年の腕白小僧八田一朗君の今日あることは元より当人の力にあることであるが、又、お母さんの終始薫育の宜しきを得たこと、細君の内助の力の大きなものがあるのに依る事と思うのである 鎌倉草庵にて 高浜虚子 −前文略− 絵を習い始めた一朗さんは毎日一枚づつ菖蒲の絵を描いては丸ビルの私の事務所に持ってきた。日一日と上達する、と熱心に書いているということであった。こうした努力は一朗さんの今日ある大きな一つの力と私は感じているのである。50歳に手のとどきかかっている一朗さんも決して若いとは言えないが、心も身体も健康であるこの人の未来はまだ広々とあるような心持ちがして頼もしい。 笹目 星野立子 |