八田会長の話から「太田節三第四話」 |
「君・・・早稲田のレスリング部の太田(章)は秋田出身だろ。太田節三とは関係ないのかな、調べておけよ。秋田は昔から柔道の盛んなところで、秋田県のレリング協会会長の小玉正巳も柔道が強かったんだよ。太田節三も小玉道場で柔道を習ったと聞いたが、小玉の実家は太平山の小玉酒造で秋田では有数の名門だ。柔道道場は持っていなかったとは思うが調べておいてくれ。」八田会長から命じられ秋田市役所に勤める友人を介して調べて貰ったところ、下記のことのようだった。 太田節三は秋田県の十和田湖の近くの小坂町で生まれ、大勢の兄弟の末っ子だった。節三の長兄は町の有力者で議員をしていたようだ。節三が通った柔道場は児玉道場といい、字の違いからも分かる通り小玉正巳氏とは関係なかった。 節三とバンニング婦人との結婚については、当時の秋田魁新聞に何度も大きく載ったそうだ。早稲田の太田章は秋田商業から早稲田大学に入学しロス・ソウル五輪で連続銀メダルを取った天才レスラーで、現在は早稲田大学の助教授をしている。同じ秋田出身で同じ姓で、お互い格闘技の天才なのだからどこかで血のつながりがあったかもしれないが、直接の関係はなかった。 会長に以上のことを報告するとつまらなそうに「そうか」と言っただけだった。「会長は誰に言うとは無く、児玉と言えば靖国神社のサンテルとの戦いを講道館が禁じたとき、破門覚悟で有段者を揃えて戦ったのも児玉と言う義足の柔道家だったな。その試合で庄司彦雄が最後にサンテルと戦ったんだよ。後日庄司が言っていたが、最後はへとへとでどうにもならなかったが、サンテルは最後はあまり攻めないで、やっと引き分けになったと言っていたよ。サンテルはまさにプロだね。と庄司は俺にそう言っていた。」 財界の巨頭・渋沢栄一や横綱太刀山などの名士を始め2万の観衆を集めた日本初の大興行に、サンテルはプロとして気を使ってくれたのかも知れない。この他流試合は当初嘉納治五郎も乗り気だったと言われている。しかし有力な弟子である東京高等師範岡部五段が講道館に退会願いを出して反対したことにより、他流試合反対派が大勢を占め嘉納治五郎師範も他流試合を禁止せざるをえなかったといわれている。そんな中、破門覚悟で対戦をしてくれた柔道家達に、サンテルが面子を立てたのかも知れない、と八田会長は言っていた。後に八田会長は日本体育協会会長嘉納治五郎の秘書となり、誰よりも信頼される側近となったが、この件について聞いても嘉納先生は何も言わなかったそうだ。 余談になるが八田会長が嘉納治五郎先生を心底尊敬する様になった出来事があった。嘉納先生と一緒に写真を撮る約束があったが、約束の時間を大幅に遅れて講道館に駆けつけて、嘉納先生になんとお詫びしたらよいかとさすがの八田会長も小さくなってお詫びしたところ、嘉納先生は「遅れるにはそれなりの訳があるのだろう。私は幾らでも仕事があるから時間は無駄にしていないから大丈夫だよ」と言われたそうだ。八田会長は嘉納先生の心遣いが有り難くてそのことをいまだに「教訓として守っている」と言っていた。八田会長が嘉納先生にレスリングを始めると報告したとき、嘉納先生は「そうか頑張れ、しかし世界の一流になるには50年はかかるだろうな」と言われたそうだが、八田会長はレスリング協会を立ち上げて30年で金メダルを8個取ったと自慢していた。 |