八田一朗会長以前のレスリング史U
庄司彦雄氏と日本初のレスリング大会

 
 日本初のレスリング大会は昭和6年6月10日に早稲田大学大隈講堂で行われた。まさかと思われるかもしれないが、この写真がその大会である。この大会は実にいろんな事を考えさせられる、まさに歴史的大会であった。
 まず、この大会に集まった各界の名士達と、その人達を集めた庄司彦雄氏の実力である。又早稲田以外の思いも寄らぬ学校のレスリング選手の出場、レスリング部創立後僅か2ヶ月で開催された大会とは到底思えない華やかなものである。
 まず、大会会長は山本忠興氏である。山本忠興氏は1905年東京帝国大学を卒業後欧米留学後早稲田大学に招かれ、理工学部長の傍ら競争部、野球部、体育会長、等を歴任し、早稲田学院、国際基督教大学などの設立にも尽くし、敬虔なクリスチャンとして多彩な活躍をした方である。この山本大会会長のことを一部の関係者は「山本千春」氏と勘違いしているが、それは間違いである。ちなみに山本資料は現在、早稲田大学に保存されている。そして、大日本体育協会会長岸清一も出席していた。
 次に、ゲストとして大会に参加し漫談をした俳優の鈴木伝明、山上草人は当時一流の映画俳優であり、特に鈴木伝明はスポーツ万能スターとして超売れっ子であり、昔でいえば加山雄三並みの存在だったそうである。
 そして新事実として極めて興味深いのが、国士舘専門学校から工藤一三氏に指導を受けた大庭、溝口両選手が参加したことである。工藤一三氏は東京高等師範を卒業後ドイツ、オランダに留学しレスリングを修得して帰国し国士舘に招かれたという。工藤氏はアムステルダム滞在中オリンピックを見ており、やり投げの技術の解説などを日本の雑誌に送っている。その傍らドイツ時代はマルクス主義の読書会に参加しているなど実に多彩な経歴の持ち主である。第一回レスリング大会に国士舘から選手が出場したという事は、国士舘の方が早稲田より早くからレスリングに取り組んでいたのかも知れない。また、八田会長とともに、弟の嵯武朗氏も共に試合に出場し、勝利を収めている。
 さらに驚くべきは、写真の通り、試合場はマットではなくプロレスのリングだったことである。リングはおそらくボクシング関係から借りてきたのだろう。レフリーは蝶ネクタイでボクシングのレフリーの様である。庄司氏が、単にアマレスを意図しただけではなく、そこに、プロ的な要素も取り入れようとしていたことは、鈴木伝明等を呼んだことを合わせても明らかだろう。この試合には、ちゃんとチケットも作られており、それは今も現存する。

 いずれにしても早稲田の学生だけで、短期間でこれだけの準備をすることなど出来るわけもなく、庄司氏が豊富な資金と人脈で周到に準備したものと思われる。庄司氏は政治家を目指してアメリカへ留学するほどの人物であり、政財界から芸能界まで幅広く顔が利き、その集金力も高かったという。のちに八田会長と別れて大日本レスリング協会を別に立ち上げようとして、何と鳩山、犬飼といった超大物政治家にも接触をしていたようだ。会長には右翼の大物・窪井義道に頼んだという。残念ながら八田会長とは袂を分かったが、一緒にやっていたらどんな協会になっていたのだろうか。
 しかし庄司さんはあまり小さいことにはこだわらない人だったようで、後に八田さんを批判したという話は聞かない。鳥取の庄司家は名門中の名門で、現在もなおその家系は続いており、鳥取には庄司彦雄氏の名を取った「彦雄新田」もあるそうである。また、旧庄司邸は鳥取県境港市の指定有形文化財である。女優の司葉子さんも庄司家の方でり、ご主人の相沢元大蔵大臣は庄司家の地盤から選挙に出ている。ちなみに、庄司氏が初めて出馬したのは鳥取だったが、次の参議院選挙では全国区から出馬している。

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