山本千春氏ついて
 
(財)日本健康スポーツ連盟理事長 玉利斉
 
 先日、八田会長と山本千春氏が玉利斉氏の仲介で再会していたことを書きましたら、玉利斉(財)健康スポーツ連盟理事長 から「山本千春さんの思い出」をいただきましたので掲載いたします。

 山本千春さんとお会いしたのは、昭和28年頃だったと思います。当時、私は早大の柔道部に所属しておりましたが、筋力強化の為、早大バーベルクラブを創設した頃でした。ちょうど力道山が英雄として登場した頃です。そのような世相の時、早大の先輩で、八田会長と親交があり、また、極東オリンピック三段跳びの金メダリストでもある田鶴浜弘氏が、日本人に勇気と闘魂を与える雑誌として「月刊ファイト」というプロレス専門格闘雑誌を創刊しました。実は、この雑誌には八田会長も力道山も出資していたようです。私はこの雑誌にボディービルの記事を書いて貰いたくて、事務所のあった八重洲口の大阪商船ビルをしばしば訪ねました。そこで顧問をしていた紳士が山本千春氏でした。
 山本氏は大変博学な方で、昭和初期のボディビルの始祖と言われた、ドイツのユーゼンサンドーの鉄亜鈴術を原書で読んでいらして、体力にも相当自信を持っていたようです。その人柄は天衣無縫、気位が高く、人の好き嫌いもはっきりしていたようでした。酒豪でならした山本氏は素封家であった国元の財産を飲み尽くすほど銀座で飲みまくり、大新聞を渡り歩いた文才は、実力ほどは評価されなかったそうです。晩年、明大OBの本郷氏の口利きもあり、スポーツ会館のバーで八田会長と再会し、八田会長は山本氏をおっさんと呼び、山本氏は八田君と呼び、しみじみとした再会をしました。
 早稲田レスリング部創立の同志は、無口ながらお互いをいたわるような再会でした。

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