八田会長の話から太田節三 完結 |
八田会長は昭和13年、北支開発の大谷尊由総裁秘書となった。秘書時代八田会長は歴史上の有名な人々と満州で出会っている。 八田会長は突然懐かしそうに昔の出来事を話し出す事が良くあった。 「川島芳子を知っとるか君は、私は満州で一緒に飯を食った事があるよ。」とか「甘粕大尉とも飯を食ったよ、たしか満州では映画関係の仕事をしとったな。大杉栄、伊藤野江の事件は聞いたことがあるか。」とか「徳三宝は火を見るとてんかんを起こすんだよ。」とか、嘉納先生は「講道館に私を呼んで私が先生の部屋に入ると、それまで部屋に居た高弟を出てゆくように促すのだよ。」「私はずいぶん講道館の幹部に妬まれたね。」などと突然言いだして、「うふふ」と一人笑いをしたりする癖があった。 「太田節三に貰った葉巻を吸って英文を持っていれば、国鉄の特二は全部無料だったね。」いつもの癖で会長はこんな事を言いだした。特二とは今のグリーン車で、当時としては珍しい葉巻を吸う八田会長に対し、米軍の関係者と勘違いし車掌は何も言わず丁寧に扱ってくれたという。「たまたま切符の提示を求められても英文を堂々と差し出すと車掌は一礼して行ってしまうよ」と会長は得意になって話していた。 昭和26年、太田節三はひょっこり日本に帰ってきた。帝国ホテルで財界の代表幹事、古川電工社長西村敬三の紹介で記者会見した太田節三は、「祖国日本が敗戦の焦土から復興するため、お役に立てればと、私は在米の財産権を担保に、GHQの協力も得て、米国大銀行の協調融資3億ドルの借入契約が整ったのでこれを手みやげに日本に帰ってきました」と大見得を切った。当時三億ドルと言えば1000億円、途方もない金額である。太田を迎えた日本財界は色めき立った。 屋久島の電源開発を皮切りに、10億円規模の企画が100件以上も持ち込まれたという。ただ当時の日本政府は外資の流入を警戒して外貨制限を厳しくしていた為、太田の資金は日本に持ち込むに際し色々問題があり、GHQの口添えも貰ったという。ある財閥系の企業は太田に銀行保証のサインをしてもらうため、京都祇園で太田を接待漬けにして銀行の保証を懇願したという。 「君・・君は中央大学だったな、太田節三の中央大学時代の親友という剣道部OBがなかなかの奴でね、おおぼらを吹いて財界をかき回して、支度金としてかなりの金をせしめたといった話もあったぞ。外資制限緩和に際しては、マッカーサーの添え状もあったなどと言われ、戦後の日本財界を翻弄させたM資金もこの事件がほったんだったという説もあるんだ。」 会長はさらに続けて、「私は推察では日本に来てからの太田節三は田鶴浜弘の言うように大した金は持っていなかったように思う。周りが太田をまつり上げ金集めに利用したと言う面もあったと思うよ。ただ太田節三は日本に帰ってからの10年間、帝国ホテルを根城に好き勝手な生活をしたんだからそれなりの金はあったんだろう。」 昭和37年、お気に入りの湯島の旅館で前日まで酒を飲んでいたというのに、翌朝友人が訪ねたときには冷たくなっていたという。63歳、死因は心臓麻痺、世紀の快男児太田節三の最後はあっけないものであった。その後、米国の太田節三の財産がどうなったのかは分からないが、米国にルーシー・バンニング名義の莫大な財産があったことだけは事実である。 次回は「あとがき」に続きます |