『早稲田大学レスリング部70年史』への疑義 −その問題点を徹底検証する− |
昨年、早稲田大学が『早稲田大学レスリング部70年史』沿革史を発行した。日本レスリング界の先駆けだけに、他のレスリング沿革史のような資料や回顧録だけの記述ではなく、それぞれの年代についてちゃんとした説明を加えており、その成果は十分に評価している。 が、一方で、私の中にどうにも違和感を感じる部分があった。改めて読み返してみると、それは単なる違和感ではなく、大きな問題点があることに気がついた。それは何か、実はこの本は早稲田レスリング部史にも拘わらず「反八田」を前提とした書なのである。しかもそのやり方がかなり「姑息」だ。「斯界の雄たるべきワセダには、苦言を受け入れる度量が求められる」(218頁)とのことなので、今回は、この点について徹底検証し、そのいい加減さを暴露し、何故八田一朗をほとんど知らない人達がこの様な本を書いたのか追求して行きたいと思う。(以下、書名は『70年史』と略し、頁数は本書のページ数を示す。) まず、私のこの本に関する見方だが、結論からいえば、「八田は必ずしも立派ではないんだよ史」という一面を持っていると考える。しかし、この本は、事実を確認してそこから検証するという、歴史分析では当たり前の手法をとっていない。まず八田の立派ではないところを強調しながら、それに合うよう恣意的に歴史的文脈を構成しているように思われるのだ。結果、事実自体が歪曲されかねない表現が数多くある。その際だった点をあげたい。また、八田会長以外にも問題のある記述や事実誤認なども併せて指摘したいと思う。 ●「1931(昭和6)年4月18日、八田は山本千春らとともに部の創部にこぎつけ、日本レスリング界の先駆としてはばたきを始める、というのがこれまでの定説とされていたが、実際はかなり異なるようだ。早大柔道部に出入りしていた、八田の先輩に当たる庄司彦雄五段が創部に当たっての代表者であり、その中に八田が始めから加わっていたことすら疑わしい。八田持ち前の粗暴とも思える実行力をもって、後から次第に部の実権を握っていった、というのが真相ではないか。」(22頁) のっけから八田批判で始まるこの文章は、これまでのレスリング史に異議を唱えた極めて重要な文章に見える。ところがよくよく読んでみると、定説とどう異なるのかについては、庄司氏が代表者であった、という事実以外に何ら記されていない。八田会長の著書には「同志数名と早大レスリング部を創設した」と書かれているが、「早稲田レスリング部は私が中心になって作った」などとは書いていない。ということは、定説は何ら問題はないということになる。そもそも言っていないことを言ったことにしておいて、実はそうではなかったのだと『70年史』が暴露したつもりになっているとすれば、これはかなり悪質なねつ造の可能性がある。 そしてとんでもないのは、「始めから加わっていたことすら疑わしい」という内容だ。何がひどいかと言って、「疑わしい」に足る根拠が何も示されていないのだ。これは前にも書いたが、私は会長は創生期の「選手側」の中心であったと見る。色々な根拠はあるが、一番大きいのは、昭和27年、協会として山本千春氏ら反八田派と目される人々も入って編集された「レスリング世紀の闘い」(日本アマチュア・レスリング協会編、双葉書房、1952年)にある、「当時のレスリング部に集まった人々は八田、山本、宮崎…」「(山本千春氏について)八田一朗等とともに早稲田大学レスリング部を創立した黎明期のレスリング理論家…」(262〜263頁)といった記述だ。この編集には反八田派も加わっていただけに、かなり信憑性は高いと私は見ている。『70年史』はこのような記述は一切無視し、八田会長を「貶める」意図を持ってこの様な極めて恣意的かついい加減な憶測を入れたのではないのか。「定説」を覆そうというのに、あまりにもお粗末な反論である。 そして「粗暴とも思える」という記述があるが、こういう表現が至る所に見受けられる。これは「思える」だけだろう。しかも、どういう具体的事実に対して、どのような点が粗暴なのか、そしてそもそも誰が粗暴だと「思った」のか。これは事実ではなく「感じ方」にすぎない。感じ方、とらえ方というのは、千差万別であるならば、「誰が思った」という主語が必要になってくる。ところがこの文章にはその肝心の主語がない。ということは、これは誰がそう思ったということではなく、「八田は粗暴だ」という一般的な見方を示しているのだ。誰がそんなことを決めたのか。 今泉は何を枝葉末節を取り上げているのか、というかもしれない。ところが、えてしてこういう何気ない記述が、人物評価を作り上げていく。これは怖いことなのだ。よく考えて欲しい、書いた人間が思ったにすぎないことを、あたかもみんなが思っていたように書いているのだ。みんながそう思っているというのならば、それをちゃんと論証すべきである。それが歴史記述だ。 会長の押しの強さや強引さは誰も認めるところだが、それが成功を生んだ「一要因」だという事は定説といえよう。しかし、粗暴だけなら、あんなに組織はまとまらない。粗暴に見えたその裏側にどんな深謀遠慮があったのか。むしろそこが八田会長の凄いところだと私は「思っている」。思ったことと事実とは次元が違う、という初歩の初歩さえもわきまえないでレスリング史の枠組みを提示しようとしたのか。 最後の「実権を握っていった」などという書き方も恣意的な表現と私は読みとったが、そもそも庄司さんはプロレスリング的傾向が強く、昭和7年1月に早大レス部を出たその時点で八田会長は実質的な実力者になったのではないだろうか。この事は次の文章で示そう。 ●山本千春氏を持ち上げすぎ(22頁など) 編集委員が誰に聞いたのか分からないが、山本千春氏の人物像をかなり美化しすぎているのではないか。確かに創成期に携わり、相当の金も注ぎ込み、世話になったOB連中も沢山いるのだろう。こういう人もいたことは忘れないで欲しい、という書き方ならば、全然文句はない。しかし、山本さんがどうこういうつもりはないが、八田会長と比較すれば、レスリングに対する功績は一目瞭然だ。昭和20年代までレスリング界にいたようだが、選手としては全く成績を残しておらず、表舞台で活躍した人物ではない。山本さんを評して「朝日新聞に入社して社会的地位を得た常識人」とも書いているが、当時の新聞記者がどの程度のものだったか、編集委員はそういう肩書きだけで人間を評価するような薄っぺらな人間観しか持ち合わせていないのだろうか。そういう人間は、私から見れば「人を見る目のない人間」である。そんな人間の言う「常識人」など全くあてにならない。 もし、「常識人」という人物評価をしたいのであれば、山本さんがその後に転々とした人生をもう少し詳しく調べるべきであろう。詳しくは書かないが、晩年八田会長と再会した時の姿を見れば、その挌の違いは歴然としていた。会長は山本氏に対して、君はまだ女の紐のような生活をしているのか、と諫めていた。人には色々な面があるものだ。それを誰かの一面的主観だけで評価をして、しかも八田会長と比較しながら、結果的に会長を貶めかねない表現が随所に見受けられる。「山本千春の方が遙かに貢献度が高い」「朝日新聞に入社して社会的地位を得た常識人の山本を、八田が剛腕をもっていつの頃の段階から疎んじていったか…」「山本が…八田の巧みな政治力の前に表舞台から遠ざけられた結果…」。山本さんの側から見ればそうなるにしても、会長の側から見たらまた別の見方になるはずだ。「見る立場によって評価が別れる事象に関しては、一方に偏ることなく両論併記を心がけ」(218頁)などとごもっともなことを書いてあるが、少なくとも会長のことについては、このような配慮のかけらも見受けられない。これらの記述を見るだけでも、その恣意的操作を感じざるを得ない。私の見解では、少なくともレスリングの実力では、山本さんは遠く及ばなかったであろうし、裏方の部分で力を発揮しようとしたことが当初から見受けられる。会長が山本さんを「疎んじた」というのは、単なる人間関係の問題ではなく、そもそものレスリング的な「格」の問題がそこにあったのではないか。そういう部分を何も書かないで、八田が「粗暴だ」「巧みな政治力」だ、と一方の視点だけで片づけ「両論記」などと、そんな心にもない綺麗事を書いてお笑いぐさだ。 ●庄司彦雄氏について 山本、山本と、やたらに山本千春さんのことばかり書いているが、以前私のホームページで示したとおり、その創設者は間違いなく庄司彦雄さんだ。ならば、まず庄司さんのことを調べるのが部史として不可欠だろう。衆議院議員まで成った庄司彦雄さんのことは、前にも私のページに少しばかり書いたし、これからゆっくり詳しく調べていきたいと思うのでここでは書かない。問題点だけ示しておこう。 『70年史』は庄司さんについて、「代表者であった」という一言以外、ほとんど記述がない。写真は載っているが、それとて大した説明もない。しかし、たとえ1年に満たなかったとはいえ、間違いなく創始者であり、当時の庄司さんのネームバリューを考えれば、記述がないのがおかしい。しかも、創設後の数ヶ月の動きはかなり大きな動きをしているのだ。例えば、庄司さんは大日本体育協会を味方に引き入れたと見られる。それがどうして分かるかと言えば、庄司さんと山本さんが昭和6年に書いた日本初のレスリング書『レスリング』で、岸清一が「序」を書いているからだ。岸清一とは岸記念体育会館の岸氏である。また、昭和6年6月、日本初のレスリング試合には嘉納冶五郎が観戦をしに来ている。この事実は、『70年史』は掴んでいないと思われるが、『早稲田大学柔道部百年史』にちゃんと記載されている。もし、庄司さんが八田会長と喧嘩別れをしなかったら、ロスオリンピックはレスリング3団体にならずに一つの団体として選手団を派遣できたかもしれないし、その後のレスリングの発展も変わっていたかもしれない。決して看過してはいけない人なのだ。 これ以外にも、庄司さんのことはいろいろな資料があるので、それを見れば、氏のおもしろさがよく分かる。どうしてそれを調べようとしないのか。創始者のことを全く調べずに山本さんのことばかり持ち上げるている。これは『70年史』の重大なミステイクだ。しかも、『反八田』色を強めるために書こうとするならば、庄司さんは打って付けの素材じゃないか。そんな千載一遇のチャンスをみすみす逃してどうするのか。 このことを考えると、一つの事実が推測できる。それは、創設当時のことを語ったであろう早稲田長老が、庄司さんのことを全く知らなかったのではないか、ということだ。だから庄司さんを看過したのだと思う。庄司さんは、八田会長より十歳も年上で、昭和7年初頭には早稲田には当然いなかったから、小玉さんが亡くなった今、当時をリアルタイムで知っている人は誰もいない。今いる長老達は当然知らなかっただろうから、こんなことになったのだ。昔のことなど誰も知らないと思っていい加減なことを喋ったのかもしれないが、ちょっと調べれば、色々な事実は出てくるものなのだ。「若い世代」をなめるのは止めた方がよい。 聞き伝えを基にしながら歴史を書くのはいいが、聞き伝えはあくまで一史料に過ぎず、しかも二次(三次)史料だ。もしも、長老達の言ったことが全ての前提となるならば、当然ある思い(ここでは反八田)が前提になる可能性もあるし、そうなれば、この書の歴史的価値が非常に低くなってしまうことにも繋がる。そんな歴史記述の初歩を理解していない記述と言われてもしょうがない。 ●(昭和12年7月に招聘したアメリカ選手との対抗試合について)「多額の金が動いた故のトラブルもあり、入場料収入の分配をめぐって八田と、先輩格の庄司彦雄が対立したのはこの時である。持ち逃げしたとされる庄司はレスリング界から実質的に追放され、八田の政治力は一段と高まった。」(35頁) 庄司氏が「持ち逃げしたとされる」と書いてあるが、これは誰がそう言ったのだろうか。というのは、収入の配分のことで揉めているというのであれば、「持ち逃げ」という表現は適切でないのではないか。私は事実を知らないが、そもそも「持ち逃げ」とは、集まったお金を黙って持っていき、そのまま雲隠れすることである。上記の庄司さんの話は、少なくとも持ち逃げのニュアンスではない。 そして、この当時レスリング協会の理事をしていた田鶴浜弘さんと庄司さんは晩年まで親交があったし、第四代早大総長田中穂積の孫であり、八田会長の信頼も厚かった前スポーツ会館会長の玉利斉氏の証言によれば、玉利氏の尊父、剣道連盟副会長玉利三之介氏とも庄司さんはずっと親交があったそうである。このような事実を考えれば、トラブルはあったにせよ、おそらく「持ち逃げ」ではない、と私は考えている。ちなみに、玉利氏の証言によると、「持ち逃げ」をするような人物ではない、後に鈴木茂三郎氏に請われて衆議院議員に成ったほどの人物だと言っている。これは、田鶴浜さんの著書による庄司さんの記述を見ても同様のことがいえる。 私の推測を書いておくと、庄司さんという人は、プロレスを前提にレスリングをした人であり、アメリカのプロレス興行にも通じていた人だから、この試合も、プロ的な意識で捉えていただろうし、自分は「興行主」のようなイメージを持っていたのではないか。そこで起こったトラブルだろうから、レスリング側としては金を持っていかれたと考えるだろうし、庄司さんは当然の配分と考えるだろう。ちなみに、庄司さんは、昭和13〜14年頃、後楽園と江東区洲崎でプロレスの興行をしたといわれている人であり、かなりのやり手なのだ。 そう考えれば、両方の意見を聞かなければ簡単に判断はできないし、庄司さんの人格評価に関わる問題なのだから、こういう表現は極めて慎重でなければならない。そして、歴史書であるならば、「持ち逃げ」という証言の出所ははっきりさせるべきだ。それが最低限のモラルである。 ●「活字の上での戦前の日本レスリング史が全て八田中心であったかのように書き換えられていった、という事実に疑いを差し挟む余地は無かろう。」(23頁) ちょっと待て。どこに書き換えられた活字があるのか。それをちゃんと提示してもらいたい。少なくとも、それは八田会長の著書だけであって、自分の本だから自分を中心に書くのは当然のことだ。その八田会長だって、内藤克俊さんには敬意を表してちゃんと著書に記している。 戦前レスリング史の記述がある書籍を私が管見したもののみ提示すれば、各大学レスリング部史には、八田会長のことなどほとんど書かれてはいないし、『日本アマチュアレスリング協会50年史』でも八田会長一色というわけではなく、ちゃんと山本さんの名前も出てくる(但し、庄司さんの名前はないので、それは意図的に消した可能性もある)。前述の『レスリング世紀の闘い』だって当然八田一辺倒ではない。協会の機関誌も色々と調べてみたが、内藤克俊研究家の拓大OB宮澤さんが、八田会長以外の戦前レスリング史のことを詳しく記述している(1980年4月号〜)。文藝春秋に掲載された宮澤さんの論文「遙かなるペンステート」は編集委員も読んでいるのだろう(20頁にその旨記載)。それ一つをとっても、全然書き換えられていないことがよく分かるではないか。あちらでは、内藤さんについての論文を堂々取り上げておきながら、こちらでは、八田一色に「書き換えられた」などと記述する、つまり、『70年史』の言っていることは全く整合性が取れていないのだ。 是非とも編集委員にお答え願いたいが、君たちは、本当に日本レスリング戦前史の記述を徹底的に洗い直した上で、上記のようなことを断定したのか。実は、何となくの思い込みだけで書いたのではないのか。徹底的に洗い直した私の目から見れば、後者のような気がしてならない。私はここにも、編集委員の「悪意」を読みとってしまうのだ。 ●3団体鼎立時代の記述「八田に言わせれば「雨後の竹の子の如く表れた泡沫団体」というところか。」(24頁) 昭和の7年のオリンピックの時は、レスリングの組織が乱立した。具体的には、八田会長らの早稲田派と、早稲田を抜けた庄司派と、講道館派だ。『70年史』はここでまた、何やら八田会長を小馬鹿にした表現をしてきた。 これは、八田会長が著書の中で、自分らが本流にもかかわらず、オリンピックになったら、突然聞いたこともないレスリング団体が沢山出てきて、それを「雨後の竹の子のごとく」と表したものであった。『70年史』はここまでしか書いていないので何を言いたいのかはっきりはしないが、どうも嗜めているように思える。おまえは必ずしも本流じゃないよ、といった風に。ところがそれをはっきり言ったら、自分たちが本流でないといってしまうことになるから、そうも言えなかったのではないか。私はそう推察する。 実際はどうだったのか。早稲田だけが必ずしも本流ではなかったと私は思っている。というより、みんなが『本流』と思っていたのではないか。早稲田大はもちろん自分たちがちゃんと運営をしていた、という自負があるが、一方で庄司さんは、俺が早稲田レスリングを作った、本当は俺が本流なんだ、という意識もあっただろう。一方で講道館だって、早稲田より前にオリンピックにレスリング選手を派遣したんだし、レスリングの講習会をしたことだってあるし、そもそもオリンピックといえば、嘉納大先生ではないか、という思いがあったと思う。みんなが「本流」と思っていたのだと思う。だから八田会長が、自分が本流と思っていても、何ら不思議はないし、そうでないといえばそうでないのだ。 私がここで問題にしたいのは、その書き方だ。何が「八田に言わせれば」だ。八田会長を神の如く崇めろ、などとは言わないが、少なくとも、敬意を払った書き方は出来ないのか。私は明らかにこの言葉に、会長を小馬鹿にした悪意を感じる。私が示したように、事実を当てはめれば、ある程度の推測はできるだろう。それもしないで、ただ何となく、八田会長を小馬鹿にするような言葉で雰囲気を伝えるだけ、ここにも『反八田』という意図が色濃く出ている。 ●「フィリピン選手団を招いて、初の国際試合を早大が挙行している。…「やることに意義あり」という八田一流の手法で強行された側面が強い。」(23頁) かの有名なフィリピン選手団事件である。金もないのにフィリピンから選手団を呼んだはいいが、帰国旅費がなくなり、何と早稲田大学総長であった田中穂積に泣きつき、結局、工面をしてもらったというデタラメな話である。この話は、あたかも、八田会長がしでかした、という書きっぷりだが、会長の本には「早大先輩の庄司彦雄というのが中心になってチエを絞ったが、この庄司先輩はなかなかのやり手で、「無から有を生ずる経済学」ということを唱えていた。…当時野球の早慶戦盛んな折から、部費豊かな野球部から金を調達することを考えたのである」と書かれている。つまり、会長だけではなく、むしろ、庄司さん主導であったのだ。前述したように、庄司さんはプロ的興業感覚のあった人だから、この記述は信憑性があると思う。にもかかわらず、八田会長が首謀者のような記述になっているのは、明らかな「事実捏造」だ。会長が自分の都合の悪いことを庄司さんのせいにした、と見る人もいるかもしれないが、実は庄司さんの息子さんと連絡が取れ色々話を聞いた。庄司さんの息子さんの証言からも、このフィリピン選手団の一件で八田会長と別れたということであり、少なくとも、この件に関しては庄司さんも絡みながらトラブルになったことは間違いない。この文章にも、私は会長への悪意を感じざるを得ないのだ。 ●「地道に裾野を固めるよりも一気に頂点を目指すという、オリンピック至上主義の幣は創成期以来の体質…」(24頁) これは、上記のロス五輪選考会の記述での内容だ。「至上主義」と言った場合、それを揶揄して書くのが普通である。ところがこの場合、揶揄されるのは何か。私には分からない。そもそも当時、既にオリンピックというのは国民的な行事であり、国威発揚という点から言っても、重大な意味を持っていた。当時だって、アマチュアスポーツの一般的な目標であったのだ。みんながそうならば、何が問題なのか。編集委員等は、当時のオリンピックの状況をちゃんと勉強した上で、このような記述をしたのだろうか。 ちなみに、「オリンピック至上主義」という言葉は当時にはなく、1984年ロスアンゼルスオリンピック以降、商業主義が拡大されてきてから言われてきた言葉ではないだろうか。それにドーピングなどの問題も含めて言うべきものであって、昭和初期の人を捕まえてそんな揶揄をするのは、一体どういう意図があるのか。 なんと言っても、八田会長が考えていたのは、レスリングの普及であって、その為にはオリンピックが不可欠だ、という信念が「至上主義」たらしめたのだ。そして、東京オリンピックを頂点に、それが実現したではないか。編集委員の人達は、その恩恵に与っているのではないのか。八田会長はオリンピックに対しては商業主義のような部分は一切なく、あくまで、オリンピックで金メダルを取るという情熱だけだった。私は、それはスポーツマンとして賞賛あるのみと考える。揶揄されるべきところは何もない。 早稲田の人たちは、同志である太田章氏が連続銀メダルを獲得したことを誇りに思うから、『70年史』で取り上げているのだと思う。上武氏は早稲田には2年までしか籍を置かず、金メダルを取った時は、米国オクラホマ大学に籍があったのに、早稲田の選手ごとく取り上げているのも、金メダルが誇らしいことだったからではないのか。ならば「オリンピック至上主義」などと簡単に書かないでもらいたい。そして、この言葉がオリンピックを目指している選手全員に対して極めて失礼なことだという自覚が無いのか。編集委員諸君は、真剣に日夜練習し頂点を目指した経験がないのではないかと疑ってしまう。 ●シアトル大学(21頁) 事実誤認や調査の甘さもいろいろとある。 昭和四年の早大柔道部アメリカ遠征について、相手の大学を「シアトル大学」と記している。しかしながら、これは間違いの可能性が高い。というのは、『早稲田大学柔道部百年史』には「ワシントン大学」との記述があるのだ。『百年史』は当時の史料を基にしており、こちらの記述の方が信憑性は高い。このシアトル大学というのは、実は八田会長自身が著書に書いており、『70年史』がこれを参照したのは間違いない。反八田色の強いこの本が、八田会長の記述を当てにして間違えたとすれば、あまりにも杜撰である。 八田会長はどうして間違えたのか、事実は分からないが、問題は、『70年史』はこの様な重要な事実について、全く原資料には当たっていないことである。いうまでもなく、早稲田レスリング部の元になったのは早稲田柔道部だ。ならば当然『早稲田大学柔道部百年史』という立派な本を参照してしかるべきだろう。八田会長だけではない、山本千春さんも、先日なくなった小玉さんも、そして代表者の庄司彦雄さんだって、みんな早稲田柔道部員だ。しかも、かの内藤克俊さんがパリオリンピックで銅メダルを獲得し、講道館でレスリングの講習会をしたときの中心人物は、庄司さんの一つ後輩である石黒敬七さんだ。こんなに早稲田柔道部の人脈がレスリングに絡んでいるのが明瞭なのに、どうして『柔道部百年史』を丹念に読まないのだ。実は全く読んでいないのではないか?自慢ではないが、私はこの本を15,000円も出してちゃんと買った。この『70年史』の検証のために。 ●「1938年4月に八田は整美堂書店から「オリンピック叢書」全33巻のうちの1冊として『レスリング』を敢行している。本邦初のレスリングに関する体系的な書物の古典として、不朽の価値を有する。」(36頁) 全くをもって、いい加減な調べしかしていないことがよく分かる記述である。おそらく八田会長を余り悪く書いたので、帳尻を合わせるためにこういう持ち上げた記述をしたと推察するが、そのいい加減さを暴露しただけだ。 繰り返そう、日本初のレスリング書籍は、この本より7年前の昭和6年、庄司彦雄さんと、編集委員が尊敬して止まない山本千春さんの共著で出版した『レスリング』である。希少本であることは確かだが、都内であれば、国会図書館に行けば普通に閲覧できる。国際武道大学などいくつかの大学図書館でも所蔵されている。ちなみに私はこの本のコピーを所有しているが、これを読むと、早大レスリング部創設時の状況がよく分かる。その意味で、この本は編集委員が絶対に読まなくてはならない本だったはずである。私は、『70年史』の最大のミステイクは、この本を読みもしないで創成期のことを論じている点だと断言しておく。 ●田中「保積」(23頁) もう一つ、看過できないミスを発見した。早稲田大学第四代総長田中穂積氏の名前を間違えて「保積」と書いている。こともあろうに、早稲田の本が早大総長の名前を間違えるというのはどういうことなのだ。初歩的ミスにしてはあまりにもおそまつである。これは単なるミスではなく、田中穂積氏に大変「失礼」であることを自覚して欲しい。ちなみに前述の通り、八田会長の厚い信頼を受けて財団法人スポーツ会館二代目会長を次いだ玉利斉氏は田中穂積の孫であり、さらにその跡を継いだ三代目会長がこの私である。 ●「片手落ち」という表現(27頁など) 私が指摘しなくても良いかも知れないが、「片手落ち」とは差別用語とされており、早稲田関係の書にはふさわしくない表現である。ついでなので指摘しておこう。 私は、八田会長を批判すること自体を否定しているわけではないし、早稲田は八田だけではない、いろんな人の努力もあったんだ、そういう思いは重要だと思う。そうではなく、私は、反八田を前提にしながら、理由のない憶測や誤まった事実・評価を、さも事実というような言い方で論じているいい加減さに呆れ、憤らざるを得ないのだ。八田一朗を斜に構えながら客観的に分析していると見せかけて、実は極めて感情的な書である、というのが『70年史』に対する私なりの評価だ。しかも、そのいい加減さは八田会長のことに留まらない。 もちろん、ボランティアでこの様な本をまとめる苦労はあるだろう。しかし、ここまでレスリング史に新しい枠組みを提示しようというのならば、ちゃんとした歴史学的手続きを踏まなければならないのは当然のことだ。これはその責任の重大性を全く理解していない代物だ。これを読んだ一般の人達に誤解を招いたらどうするのか。それだけの覚悟があったのか。この執筆に携わった人たちの責任は極めて重い。 しかし、ここまでいろいろと厳しいことを書いてきたが、私は本当に怒っている一方で、直接編集した若い世代を責めるつもりは、実はあまりない。何故なら、よくよく見ると、戦前の記述ばかり問題性が顕著であり、その時代のことなど彼らが知るはずないからだ。私だって生まれていないのだ。私が本当に怒っているのは、こんな記述を書かせたであろう一部長老たちだ。誰であるかは分からないが、限られた人達だ。しかし、早稲田大学レスリング部創生期のメンバーだった八田会長をはじめ先日の小玉正巳さんまで、歴史の証人が次々に鬼籍に入ってしまっている今、残った長老たちが自分の思いだけで言いたいことを言っているのではないのか。そういう疑念が私の中には強くある。そう、この記述は歴史ではなく、一部長老たちの「感情」なのだ、と。 どうして、記念すべき『70年史』で、八田一朗を否定するのか。それも、極めていい加減な歴史記述に基づいて、だ。単なる恨みつらみか。だとすれば、私は我慢ならない。そんなくだらない思いに、どうして八田一朗の名が貶められなければならないのか。実は私には一つの忘れられないことがある。八田会長が病気で余命幾ばくもない頃、ある早稲田OBが「あれはもう駄目だ」と先輩に対する態度とも思えない言動をしたのだ。そこに尊敬の念は全くなかったと感じた。この本を読んで、改めて思い出したのはその光景だった。 そして、私が不思議でならないのは、この「70年史」が早稲田大学レスリング部OB会で何故問題にならないのかということだ。このまま黙っているのならば早大レスリング部の総意と取られても仕方がない。私としては「70年史」の八田会長にまつわる部分は書き直しを求める。 この書は「八田会長への挑戦状」という意味を持つと私は捉えた。「死人に口なし」ならば、代わりに私が元側近としてこの内容に徹底的に反論し、八田会長の事実を伝える義務があると考えた。それが今回の長文の本当の「思い」である。 私は、このいい加減な内容に対して「実証的に」反論すべく、一年間十分に調べた。玉利氏の他に、早稲田柔道部OBの結城源介氏にも面会し、柔道部の歴史についても聞いた。氏の尊父、結城源心氏も早大柔道部出身の名柔道家として名を馳せ、会長とも懇意のあった人物だ。 再反論はいくらでも受けて立つ。その「実証性」と「度胸」が、君等ににあるのならば。 |
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