八田一朗会長以前の日本レスリング史
 
 日本のレスリングの歴史は、八田一朗会長に始まるか、というと、実はその前から取り組んでいた人達もいるのである。今回は、私も生まれていなかったレスリング創成期のことを少し紹介してみたい。

 オリンピックの歴史の中で日本選手がはじめてレスリング競技に出場したのは、1924(大正13)年の第八回パリ大会にアメリカ・ペンシルバニア大学の学生として出場した内藤克俊さんだった。内藤さんのことは、宮沢正幸さんが文藝春秋に記した「遙かなるペンステーツ」という文に詳しく書いてあるので知っている方も多いだろう。内藤さんは手を負傷しながらも、フリースタイルフェザー級で三位になったそうである。
 1928(昭和3)年の第九回のアムステルダムオリンピックには、講道館柔道の新免(しんめ)伊助六段が一人参加したが惨敗を喫した。この時、まだ八田会長はレスリングのことを知らない。

 そして、1931(昭和6)年4月、早稲田大学で、庄司彦雄、八田一朗、山本千春、小玉正巳、等が中心になり、喜多壮一郎教授を部長に部を創立した。これが日本最初のレスリング組織である。1932(昭和7)年の第十回ロスアンゼルス大会が迫ってきた段階で、日本がレスリングの代表を送り出すには、大日本体育協会に加盟出来る団体を作らなくてはならなくなった。そこで、早稲田大学レスリング部のメンバーを中心に翌7年に大日本アマチュアレスリング協会が設立した。一方、このグループから既に抜けていた庄司彦雄は別に大日本レスリング協会を設立、さらに講道館も田口七段を中心にレスリング部を創設した。この三団体とも体協より正式団体と認められていなかったため、選考はもめにもめ、講道館から田口七段、大日本レス協から庄司彦雄、大日本アマレス協から山本千春が交渉に当たり、何れも一歩も譲らぬ交渉だったが、体協から話がまとまらなければレスリング選手の派遣を中止する勧告され、東京朝日新聞社運動部の山田五郎氏が仲介に入り、ようやく三団体から2〜3名づつ選出して話しがついた。その代表は勿論柔道家で、小谷澄之六段、吉田四一五段、加瀬清五段、八田一朗五段、河野芳男四段、宮崎米一三段と決定した。ロスアンゼルスオリンピックではレスリングに柔道が通ずるはずもなく全選手惨敗した。

 と、ここまでが、オリンピックを中心にした日本レスリング創成期であるが、早稲田大学レスリング部70年史には、昭和6年の早大レスリング部創部に関して、八田一朗が本当に創部のメンバーに加わっていたかは疑わしい、とずいぶん思い切った説を書いてあるが、その説は間違っている、と私は考えている。そもそも、この説には、疑わしいにたる論拠が全く示されていない。私の知りうるところでは、昭和27年に発行された『レスリング世紀の闘い』には、そのメンバーとしてちゃんと八田会長の名前も書かれているし、レスリング部創設時の代表者だった庄司氏のご子息の情報によっても、そのことは確認されている。70年続いた定説を覆そうとするのならば、私の示した資料を覆すだけの資料を提示してもらいたいし、それだけの責任は持ってもらいたい。

 ここで、私の知りうるところをここに書き記そう。
 八田一朗会長は間違いなくレスリング部創部メンバーの一人であった。はじめは、 庄司氏が代表者、山本氏はコーチ、八田会長が中心選手という位置づけだったようである。これは、庄司氏の著書を見ると、確認できることである。八田一朗と小玉正巳は柔道からの転向だが、レスリングの技を研究し、かなりの実力を持っていたという。山本千春はレスリングはあまりしなかったらしいが、実家からの金の工面と海外資料の翻訳、ルールの解説でその発展に貢献していた。山本はレスリングの著書(庄司と共著)もあり、理論家でベルリンオリンピックの監督を務め、国際審判員としてベルリン大会に参加したが、所詮、八田一朗を越えるべくもなかった。

 さて、度々出てくる庄司彦雄は実に面白い経歴を持つ人物である。大正10年、2万人もの大観衆を集めて、靖国神社でアメリカのプロレス王者サンテルと戦った人物である。この試合には財界の大御所渋沢栄一をはじめ、横綱太刀山、鳳、国見山等がまわし姿で現れるなど、大いに世間の注目を集めた。結果は引き分けに終わったものの、現在まで様々な形で語り継がれている名勝負だった。この一件で講道館から段位を剥奪された庄司は、その後、政治学を学びに南カリフォルニア大学に留学、当地で柔道を教えながら、プロレスにも造詣を深めていった。帰国後、柔道にはレスリングが不可欠と八田等を誘って早稲田大学レスリング部を創設したという。
 私はおそらく、これが正しい史実ではないかと思っている。確かに八田会長のレスリングへの情熱は、例の柔道部アメリカ遠征の話しを考えても間違いないところだが、当時の有名人は間違いなく庄司氏であり、八田会長は一介の選手でしかない。日本初のレスリング書籍は、庄司氏と山本氏が書いたが、この出版は旺文社であり、このような大きな出版社から出版できたのも、庄司氏の名前があったからではないだろうか。情熱のほとばしり方は、皆それぞれ同じであったが、初めの中心人物は誰か、といえば、状況を考えてみても庄司氏に間違いないだろう。 しかし、庄司氏のレスリングは、プロレスの傾向が強く、八田会長らと分かれたのも、その辺も原因していると思われる。また、庄司氏は戦後社会党から衆議院議員に当選している。これも、八田会長との因縁が見えて興味深いところだ。この庄司氏については、これ以外にも非常に興味深い資料が集まってきたので、別の機会に改めてご紹介したい。

 さて、八田一朗は、大日本アマチュアレスリング協会を掌握してから、その強烈な個性でレスリング協会を引っ張って行った。八田一朗を支えたのは早稲田の小玉正巳、山本千春、八田弟、西出武、等であったが、他大学から八田一朗と共に協会を立ち上げた、慶応大、菊間、明治大、水谷、松田、専修大、畠山、立教大、野田、等の中にはその強引さについて行けず、反八田勢力となってゆく人達もあった。しかし、八田一朗は反対派などものともせず、敗戦後初めて参加したヘルシンキオリンピックでは日本に唯一の金メダルを石井庄八が獲得、、さらに北野が銀メダル、全員が入賞という快挙を成し遂げ、東京大会に向かっての花道をばく進していった。そして、八田一朗独特の指導により選手達は強化され、その後のオリンピックで金メダルを合計20個を取り、世界に名を轟かせていくのである。

戻る